アラフォーでニートになりました。

アラフォーで会社を辞めさせられ、未来が見えないニートが奮闘したりしなかったりするブログです。

川崎殺傷事件の犯人に対する太田光さんの言葉を、多くの人に知って欲しい

誰の心にも、弱い部分はある。そこから目を背けないで。

川崎殺傷事件の後の、埼玉の刃物を持った男に警察官が発砲した事件、元事務次官による長男刺殺と、加熱する報道のさ中に関連するような事件が続きました。

 

その過剰とも言える様子と世間の声を見ていて、私は「すごく身勝手だなぁ、この人たち」と鬱屈した気持ちを抱いていました。

「一人で死ね」という言説だのなんだのもそうですが、ずっと社会が見過ごして無視し続け『まるで存在していないもの』のように扱ってきた人がいざ事件を起こしたり被害者になったりしてみれば、蜂の巣をつついたような大騒ぎ。

刑罰は法によって与えられるのだから、無視していた奴らは煩くしないでずっと無視し続けていろよとも思いました。

 

この人たちにとっては、凄惨な事件も娯楽でしかないのか?

悪魔とは、いったい誰のことを言っているんだ?

 

他人の人生をコンテンツとして消費する身勝手さに、社会の弱点が、弱い存在が犠牲になったのはある意味復讐として成立するのだろうなぁと、気の遠くなるような考えも浮かんでは消え…

批難ばかりで建設的なこと、こういった事件を引き起こさないためにはどうすればいいかを口にする人の声が掻き消されていくのを見て、自分の同様の言葉が届かないのを見て「ああ、この社会はもうダメだなぁ、早く崩壊してしまった方がいい」と目の前が暗くなっていました。

 

そんな時でした。

太田光さんがTV番組で語った言葉を目にしたのは。

news.yahoo.co.jp

いつになく真剣で深刻な表情で紡がれる太田さんの言葉は深く心に染み、にわかに救われたように感じました。

同時に「やっぱり同じような思いをした人にしか、理解できない感覚なのかな」と世間に失望を禁じ得なくもあったのですが…

 自分の命や存在を尊べない人が、他者を尊べる筈がない

ニュースサイトでは古い記事が消えてしまうこともあるので、太田さんの語られた部分をこちらでも引用させて頂きます。

「まあ、一人で死ねってい気持ちもまあ、それは要するに『甘えるな』ということだと思うんだけど、この犯人の場合は自分も死ぬわけじゃないですか。自分の命もたいして重く見てないというか、自分が思っているような自分じゃなかったんだと思うんだよ。それって『俺って生きていてもしょうがないな』と。だけど最後に一つ、そういう大きなことをする・・・。でも自分の・・・。これって誰しもが、特定の病気というわけではなくて、そういう思いにかられることは誰しもあって・・・」

 

「俺なんか、(犯人と)同じ50代ですけど、やっぱり高校生くらいのときに、あー、俺も何も感動できなくなったときがあったんですよ。物を食べても味もしない。そういうときにやっぱりこのまま死んでもいいんだっていうくらいまで行くんだけれども。そうなっちゃうと他人の命も・・・。自分がそうなら(死んでもいいとなるなら)他人の命も・・・。自分がそうなら、他人の命だって、そりゃあ、大切には思えないよね」

 

「だけど・・・、そのときに俺のきっかけだったけど・・・」

「たまたま美術館に行って、ピカソの絵を見たときになんか急に感動が戻ってきたの。何を見ても感動できなかったんだけど・・・。ピカソを理解できたってわけじゃないないんだけど、そんときの俺は『ああ、こんな自由でいいんだ』と。『表現って・・・』」

「そこからいろいろなことに感動して、いろいろなものを好きになる。好きになるってことは結局、それに気づけた自分が好きになるってことで・・・。それっていうのは、人でも文学でも、映画でも、何でもいいんだと・・・。 そういうことに心を動かされた自分って、捨てたもんじゃないなって思うの。 生きている生物や人間たちの命もやっぱり、捨てたもんじゃないだと」

 

(テリー伊藤)
「太田さんは自分一人で見つけることができた。彼(犯人)みたいな人はそれができなかった」

(太田)
「それが、つまり、俺は・・・そのすぐ近くにいると思うのは、ああいう彼のよう人がそこを今・・・いいや、そこを今、『自分って死んでもいい』と思っている人は、もうちょっと先にそれを見つける・・・。『すぐ近くにいるよ』ってことを知ってほしい、というか、そのきっかけさえあれば・・・と思うんだよね。すごい発見ができる。すごい近くにいると」

太田さんはご自分の過去の体験から「自分と犯人は全く違う生き物ではなく、すぐ近くにいる紙一重の存在だ」と感じられたのでしょう。

私もですが、社会的に苦しい立場に立たされ危機感を抱いている人は、やっぱり「自分も一歩間違えれば同じように罪を犯してしまう瀬戸際の状態なんだ」と自覚できている方の声が多く聞こえました。

社会から孤立してしまう人の多くが、自己肯定感を失い、自分を愛せない、尊べない状況に陥っているのではと感じます。

私もそういった人間で、今は回復しつつあるのでしょうが、完全に自信を取り戻したとまではいかないです。

何かを切欠に、また落ち込んでいってしまう可能性すらある。

 

「自分を愛せない人が、他人を愛せる筈がない」

「自分の命の大切さすら知らずに、他の命を大切には出来ない」

 

こういった言葉を書き綴る人たちの存在を無視していなければ、SNSなどでも何度も見掛けたのではないでしょうか?

誰だって立ち直れる可能性がある

だからこそ今ギリギリの状況で苦しんでいる人も、何かの切欠や助けがあれば立ち直れる可能性が、社会とのつながりを断ち切ってしまわず、人として生きる道が開かれる可能性があると思うのです。

根が強い人なら、太田さんのように自分の力で立ち直れるかも知れない。

でも、みんながみんなそうではない。

無差別殺傷のような凶悪犯でなくとも、罪を犯して捕まってから問題が発覚した人たちは多くいます。

そうしてやっと支援を受けられたり、真っ当な人としての扱いをして貰えたりする人もいるのです。

 

興味深い記事がありました。

news.yahoo.co.jp

こちらの「死ぬことを覚悟した人間が生きていくための理由とは」の項で、この記事を手掛けられた篠田さんが「黒子のバスケ」脅迫事件で収監された犯人に何度も接見に行くうち起きた変化が綴られています。

 ひとつだけ紹介しておこう。彼が刑務所に服役している間に何度か接見に行った。そしてある時、驚いたことがあった。面会はなるべく平日を避けてほしいと言ってきたのでその理由を訊いたところ、彼は作業所の班長になっており、部下の服役者に指示を出す立場になっていた。だからなるべく作業時間中には作業所を離れたくないと言うのだった。

 刑務所というのはある種のヒエラルキーによって成り立っているのだが、世間の人から見れば、班長といっても誇れるような立場とは思えないに違いない。でも彼はもしかするとそのささやかな境遇を得て、人生で初めて、自己肯定感を得られたのかもしれない。世間から見ればごくささいなことであったとしても、小さい頃から家庭でも学校でも否定され続けてきた彼にとって、それは貴重な体験だったのかもしれない。

 

 なんだ、そんなことかと思う人もいるかもしれない。でも恐らく、前述した絶望して無差別殺傷に走る人には、そのささいな体験さえなかったのではないかという気がするのだ。渡邊君も、小さい頃から親に愛されたという思いがなく、学校でもいじめられた。それは奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚も同じだ。

 そして我々が考えるべきは、今のこの社会は、そういうささやかな自己肯定感さえ得られないような人を大量に生み出すような状況に陥っていないのか、ということだと思う。

 黒子事件の犯人が裁判で語った内容と、獄中での様子を知ると、今後の無敵の人案件を減らしていくにはどうすればいいかのヒントが詰まっているように思います。

ただ、今の日本社会では難しい。

 

いわゆる「普通」に生きている人でさえ、雇われている企業からは奴隷の方が丁重に扱いを受けていただろうというくらいに人間扱いされず、安月給で酷使された上に消耗品のように使い捨てられているようなブラックな環境が蔓延っています。

失敗したら二度と立ち直れないような流れも、本当に酷いですよね。

 

まず人間を当たり前に人間として扱うところから始めなければいけない。

労働環境も、教育の現場も。

「命は大切なものだよ、生きているだけで大きな価値があるんだよ」

という人もいますが、今の世の中では虚しいものでしかありません。

世の人々の行いが、あまりにも中身を伴っていないから。

そんなに大切なものなら、もっと形にしてしっかり表していかないといけないんじゃないでしょうか?

 課題は大きすぎますね…

ひとりや少数が頑張っても、きっとどうにもなりません。

多くの人たちに認識して貰って「変えよう」という動きにならなければ、きっとよくなっていかないでしょう。

「心の無差別殺人」が横行している

人は弱い生き物です。

事件が起きて犯人や関係者に批難を浴びせようとするのもまた、人の弱さからくるものなのだろうなとも考えています。

理性的で成熟した人間ならば、人を裁くのは人ではなくそのために法があるのだと理解し、自分の心を制御できる筈ですから。

でも、今の人間の多くはそれが出来ていない。

見えない刃物を振り回しているのに気づかず、物理で行動を起こした相手には届かず思いもしなかった、パソコンやスマホの向こうにいる相手をズタズタにしている。

 

本人がそうは思っていないだけで「心の無差別殺人」を行っている人は、ネット上でよく見掛けます。

だけど、それをやっているのが必ずしも悪い人間かと言うと、そうではないのでしょう。

自分がそんなことをしていると、気付いていないだけ。

そうしている本人も弱くて、事件に際する何かを恐れて、時には犯人と自分は別の生き物なんだ、自分はあんな風にはならないと心の深層では思っているのかも知れない。

 

でもやっぱり、紙一重なんですよ。

どんなに立派な人でも何かの弾みで人を殺めてしまうは、元事務次官の件でも明らかです。

怨恨や一時の感情など原因や理由は様々でしょうが、縁のある人間を手に掛けてしまう可能性は誰しもあるのです。

いわゆる無敵の人案件は、「相手」がただただ大きく広義のものになっただけ。

「犯人対社会」という構図になっただけです。

人を殺そう、攻撃しようとしたら、一番に狙うのは弱い部分ですよね。

だから、物理的に抵抗を受けにくい、確実性の高い存在が狙われるのも理解して頂けるかと思います。

犯人と自分は紙一重だと理解できない人へ…

それでも理解できない、認めたくないという人にはどう説明すればいいでしょうか。

色々と考えているうちに、私はふと「これはあれに似ているな」と思い付きました。

「無敵の人」はさながら生きたまま怨霊と化した存在

一番簡単な表現は、祟りを周囲に撒き散らす怨霊かなと。

社会に人としての心を殺され、犯行を起こすまで極限状態に至った人の精神は、もうまともな人間のものとは呼べません。

理性や整然とした思考のできなくなった怨霊の恨みは、誰彼構わず向けられます。

目につく自分の取り殺し易い相手から狙うのは、無常ながら自然の成り行きでしょう。

 

ですが、心は怨霊と化していても彼らにはまだ生きた肉体があり、人間として法に裁かれる存在でもあります。

そして何より、手遅れにさえなっていなければ罪を犯す前に「息を吹き返す」可能性だってある筈なのです。

まだ命があるのなら、希望は残っている

私がこうして何度も発信しているのは、自分のことを愛せずに死んでいく、誰かを殺してしまうような人をひとりでも減らしたいという思いからです。

私自身、何度か自殺に失敗した身ではありますが、それでも命があるならまだ希望は残っているのだと信じたいのです。

そのために自分が出来ること、したいことを考えながら行動に移しているのですが…

camp-fire.jp

世の中を少しずつでもよくしていくにはどうしたらいいか、自分は何をすべきなのか。

考えてみませんか?