なんだかずっと考えています。
「誰にも迷惑を掛けず一人で死ね」
そう言われても、今の日本にはそういう設備もシステムもありません。
無責任に「自殺はいけない」というだけで、根本的な解決につなげてくれるものだってありません。
「一人で死ね」という言葉を見る度に、胸を滅多刺しにされているような思いでいました。
死のうとしたよ。でも死に損なってしまったんだよ。
こんな風に、精一杯の死ぬチャンスを奪われてしまった女の子もいます。
後始末をする作業員さんやダイヤの乱れに対応する鉄道関係の方々、多くの人たちの手を煩わせたり、損害が発生しなかったのはよかったのでしょうが…
彼女が私のように、自殺に失敗したことが今後の人生に更なる苦痛を負わせてしまうような状況にならないよう、ケアしていって欲しいものです。
「あの時死ねていたら…」と思うことがどんなに苦しいか。
死にたいと思ったこともない人には、きっと理解できないのでしょうが…
苦しんでいる人たちの心に、ヘイトが溜まっている
「一人で死ね」という言葉に、私のように一歩間違えれば無敵の人になってしまう可能性を自覚している人たちからは悲痛な声が聞こえてくる。
この記事を書いた人も、ここに共感を示している人たちも、どれほど辛い思いをしたのでしょう。
社会は「支援してますよ」という体だけ見せていれば、実際にはそれが不充分でもおざなりでも構わないと思っているのだろうか。
実際には何も届いておらず、本人や家族が困っていてもどこに相談したり助けを求めていいか分からない、知らない場合が多すぎるんです。
行政側には色々な補助や免除、支援のシステムがあっても、それを公表したり流布しない。当然本当にそれを必要としている人たちには届かない。
実際使われたらお金が出て行ったり、納付が減るからですかね?
下手をすれば人の命がなくなってしまうことだってあるのに。
ちょっとおふざけが過ぎるんじゃないでしょうか。
この記事のブックマークに、興味深いブコメがありました。
"一人で死ね"もある種のマチズモだよね。「I did it, you also can. 」できなけりゃ自己責任。周りを巻き込んで死ぬ人だけが増えた訳じゃなく、死ぬ人のパイが増えてんだ。一人の無敵の人の影には無数の一人で死んだ人がいる
(id:modal_soul さん)
ああ、そうだよなぁ。
強者の理論というのもそうだけど、ひっそり死んでいった人・死のうとした人の中から一人、こういう亜種的な行動を取ろうとする人が出たという感覚もあるんですよね。
統計的に、自殺者との割合とか見てみたら何か分かるでしょうか。
“みんなもう一人で死んでいる。わざわざ誰かが言わなくとも” 悲しい想いを溜め込んだからこそ書ける一文に思えた。その悲しさに思いを馳せるだけの想像力を僕は持っているのだろうか?(id:neko2bo さん)
本当に悲しすぎる言葉です。
大阪の飛び降りみたいに取り沙汰されなければ、現在の日々の陰で無数の自殺者がいることなんて「普通の人」は考えることもないのだろうなと。
鉄道の人身事故だって、おおよそ人間とは思えない死に方をした遺体を片付けて清掃して…
「迷惑だ」とイラついて、時に駅員さんや周囲に当たり散らすような人はその抑止に何かしら寄与しているのだろうかと。
ではその先何が出来るというのだろうか。増田に何かしろという意味ではない。共感ブコメしてる人は何をするんだ?共感して祈って終わりか?それがまったく理解できんのだけど/ 皆イケハヤを嬉々として叩いてたよな?(id:kitano_ow2 さん)
そのためにも、私はこれ
を実現させたいのです。
死にたいと思っている人や社会に対して辛い思いをしている人に「とりあえずご飯(お菓子)食べにおいでよ、お店が開いている間はずっといてもいいんだよ」という場所を作りたい。
違う人間同士だから共感できるところもできないところもあるだろうけれど、話を聞くこともできるし必要としているどこか・何かにつなげる切欠だって作れるかも知れない。
それに、こういう活動が他の人や場所にも広まっていけばいいと思っています。
間口が増えれば、ひとりでも多くの「死んでしまう人・道を踏み外してしまう人」を減らせる可能性だって大きくなりますから。
そのためにもまず、自分がやっていかなきゃと思っていますが、やっぱりこういうのをいいと思ってくれるのは、必要性を感じられる人は、ごく一部なのかなぁ。
どうしたらもっと支援を得られるのか、支援してくださる人のところまで届くのか、プロジェクトを公開してからずっと悩んでいます。
でも、拡散をお手伝いしてくださった方々のお陰でプロジェクトを目にして、「こういうのが近くに出来たら行きたい」「こういう居場所が欲しい」と言ってくださる方もいらしたので、どうにかして実現したいところですね。
単体での無差別殺傷よりも恐ろしいことが起こる可能性
前向きな内容で終わらせておけばよかったかな…と思いつつも、やっぱり書いておかなければならないと思ったので、書きます。
昨日のエントリーで「無差別殺傷事件を起こした犯人も、何らかの能力で優れている部分があった」という旨のことを書いたのですが
事件を引き起こすよりも前にちゃんと立ち直らせることが出来ていたら、社会で活躍できる人になったかも知れないということとは別の可能性(というか危険性)を感じてもいました。
通り魔のような場当たり的な犯行ではなく、もっと恐ろしいことをしようとする人をも生み出してしまうのではないかと。
サリン事件の松本死刑囚は、社会に対する逆恨みを持っていたと言います。
また、ああいった宗教のような組織は行き場のない人も呼び込み易い場所になってしまうのではないかと危惧しています。
今は、宗教を名乗らない宗教のような怪しい集まりがネット上にも出現しているような時代ですから、新興宗教にばかり注意を向けていると足元を掬われるかも知れません。
変に知恵の回る人物が人を集め、表向きそうは見えない活動でカモフラージュしながら画策を巡らせたら、第二第三のサリン事件のようなことが起きてしまう…
そんな風に思ったのです。
事件を受けて様々な対策が練られ、もうあんな規模のテロは起こせないというようなことも聞きますが、その隙間を縫っていくような悪知恵が働く人もいるでしょう。
どんなに万全を期しても、死角を突かれたらどうしようもないです。
やっぱり未然に防ぐ活動、「こういうことをしよう」となってしまう人をそう思わせないように引き留めていく何かしらのことは必要だと思います。