たまに「普通」ってなんだろうなと思う時がある。
大概「一般的な」「世間一般の人は~」みたいなステロタイプのことを指して使う。
それを考えると、私も普通の家庭環境とは言えなかったし、普通の家族・家庭で育った訳ではない人というのも少なくないんだろうなぁと、色んな話を目にしながら思う。
家が貧乏だったとか、親が毒親だったとか…
そういう人が大人になって、もし伴侶となる人が現れても「普通の家庭」を作れるかどうか、不安になるんじゃないかな。
私もそう…というより、絶対に結婚はしたくないと、子供の頃から思っていた。
元々15歳で死ぬつもりだったので、無縁だと思っていたこともある。
自分の周りにいる男たちは傲慢で、今でいうモラハラだったり変態性があったり、とにかく酷かった。
祖母(母方)も母も、そんな連れ合いに苦労していたし、私自身も嫌な目に何度も遭った。
小学生の頃痴漢に遭って、嫌悪感や恐怖心がより深くなったのもある。
思えば一緒にいて嫌ではなかった男性なんて、若い頃にいた友人だけだったな。
私が全ての男性を嫌わずに済んだのは、その友人のお陰と言っても過言ではない。
(彼はもういないのだけれど…)
死に損なって死にたいと思い続けながら惰性で生き続けている間も、前の代までを見てきた自分は絶対結婚に失敗すると思っていたので、異性をそういう目で見られなかったな。
よしんば平穏な結婚生活が送れても、子供が生まれたら虐待してしまうかも知れない。
自分の子供にまで、自分が味わったような思いをさせるのは嫌だ。
そんな心理的な状態では、独りでい続けるしかなかった。
だから、私にとって結婚とか出産とかは、本当にもう他人事でしかないのだけれど。
最近ある界隈を見ていると、そんな私でもあたたかい気持ちになるのだ。
少し昔に戻ったみたいに
TwitterのTLを見ていると、たまに「えらてん界隈(えらてんさんを中心とした、或いはその周辺のコミュニティという意味)」という言葉を目にすることがある。
まだ実際に目にした訳でもないのに、私はその辺りのことを「ああ、なんかいいなぁ」と思って眺めてしまう。
そこには中途半端な人もダメな人もなんだか安心できて、生きていけるんじゃないかと思わせてくれるものがある。
えらてんさんも著書(しょぼい起業で生きていく)で「地域を作っていく」みたいなことを書かれているんですが、どういう人生を辿ってきた人もいられて、定職じゃなくてもなんかその時々の仕事をしたり、結婚して家庭を作ったり、手伝える人で手伝ったり応援したり…
そんな、ゆるくてあたたかいコミュニティが出来てるんだなぁと感じられる人たちが、Twitter上にも沢山おられるんですよね。
若者の未婚率とか少子化とか問題になったりしてますけど、あの辺りでは20代のうちから結婚している人たちも多いし、最近もおめでたい話を聞いたようにお子さんも結構生まれている。
なんだか、今の日本と全然違う国が、大都会の中にポツンと存在しているような感覚になったりして。
でもね、やっぱりこれって「何もかもちゃんとしなくていい」という許しの気持ちが、えらてんさんを始めみんなに広まっているからなのかなって思った。
ちゃんと正社員で働いていなくても、ちゃんと社会人になれなくても、そこにいていいんだよってみんな許されて、許し合っている。
適当なところがあったっていいし、むしろそういうところがないと人間って壊れちゃうんだよ。
0.0001ミリ単位で設計されているような機械じゃないからね。
無理に締め上げたら、有機的な細胞は死んでしまうんだ。
だから、こういうコミュニティが広まって、地域になって。
完璧でなくていいじゃないかという「社会」が出来ていったら、人はもっと幸せになれるし子供も増えると思うよ。
えらてんさんは結婚や子供を儲けることにも、どんどんやればいいというようなことを(作中の対談で)言っていた。
集合住宅とかで何家族かで住んで、子供の面倒を見られない時には助け合うような感じのことも。
それってね、最近はなくなってしまったご近所付き合いのあたたかい面だなって思った。
仕事だってさ、江戸時代くらいだとその日に口入れ屋に行って仕事を貰って、日毎に違う仕事をしたりして日々の糧を得るっていう働き方も多かったし、長屋に沢山の世帯が住んでいたりして…
別に江戸時代から生きていた訳じゃないけど、時代劇のそんな場面を思い出したりしてなんだか懐かしくなった。
古い時代にも、いい部分はあるんだよ。
逆に今は便利になったり進歩した分、別の部分が不便になったり生きづらくなっているんだと思う。
だから、いいところは回帰していく、人が少しでも辛くない、楽な気持ちで生きられる環境にしていくって大事なんだよね。
そういうのを、私も広めていけたらと思う。
沢山を救えなくても、自分の周りだけでも少しずついい感じにしていきたいと、思うんだけどさ。
「当たり前」は遠いものだと思っていた
両親が仲良く、家庭の中が穏やかで…
目立った不自由もなく、のびのびと子供が育っていける。
そういう家庭は、ホームドラマの中にしかないのだと思っていた。
実際にはあるらしい。
だけど、自分には遠く及ばないものだ。
「当たり前」の普通の家庭は、遠すぎてよくわからないものだった。
だから、そういう場面を書く必要がある時は見よう見真似と想像で作り上げるしかなかったんだよね、頭の中に「普通の穏やかで平和な家族の肖像」を。
それが読んだ人に違和感を持たせない、自然なものであったらいいなと思いつつも、やっぱり実体験ではないんだよなぁと遠い目をしてしまうことでもあった。
でも今は、そんなあたたかな家庭が、インターネットを通して自分の近くにあるように感じる。
流石に自分はその区切りには入っていけないけれど、不思議と遠い異世界のようには感じなくなっていた。
結婚願望とか異性を恋愛対象として見るとか、あんまり考えられないんですよね。
もう、お金持ちで結婚している体にしたい人に籍だけ貸して、月々使用料を振り込んで貰えないかなとか考えたこともあるくらいには(※社会的にアウトなのでやめましょう)
生物的になのか、男性を怖いと思ってしまう部分も否めないし。
きっとこれも、彼らのことを知れたからなんだろうな。
はてなには「仕事クビになって心身疲れ切ってるしもう働きたくない!ニートになってブログ始めるよフゥー」みたいなノリでやって来たけれど、その行動がなければ彼らと出会うこともなく、しょぼい起業のことやしょぼ喫の存在を知ることもなく死んでいったのかも知れない。
そう思うと、不思議な感じがするなぁ。
やっぱり人生には、振り返ると「そうなるように出来ていたのかな」ということがいくつもあって、これもそれに類することなのかも知れない。
どんなに小さくても一歩踏み出すというのは、大事なんだな。
一歩でも歩き出せば、何かが変わるかも知れないのだから。