月が替わる前から大分騒がれている、銭湯絵師のパクリ問題。
実はまだ見習いでしかない(しかも、これもプロモーションのためにゴリ押しで作られた属性だった)勝海麻衣さんが、大正製薬の商品「RAIZIN」のためのライブペイントの場で、イラストレーターの猫将軍さんの作品「A」と「HUN」を剽窃した虎の絵を描いたことがバレて炎上したという流れは、ご存知の方も多いかと思われます。
しかも、ライブペイント中勝海さんの手にはプリントアウトされたらしいお手本が…
ど、どんだけなの?
と思いますが、この騒動ここだけには収まらなかった…
勝海さんに銭湯絵師の弟子の座とその属性を奪われたという湯島ちょこさんの告発や、銭湯業界で暗躍する町田忍氏の言動によって地獄の釜の蓋が開いてしまったなぁ…という感じ。
更には対象をぼかして別の問題にツイートしていた岸田メル先生が周囲の誤解から巻き込まれたり
と、もはやカオスな様相を呈しています。
まあ、この問題のどうこうは置いておいて、いち早く勝海さんへの注意を促し、イベントに湯島さんを起用した葛飾の銭湯組合の人たちが一番賢いかなぁ、とは思っちゃいますね。
私は確かに義憤とか私憤とかを抱いたりはするんですが、別に正義で焦土を作りたい訳じゃなくて、怒りは世の中の理不尽なことに対してなんですよ。
なので、この場で一番真っ当にひたむきに活動している方々に光が当たってくれれば、そういう人たちに利する展開になってくれればいい。そう思っています。
葛飾の彼らは、正当な銭湯絵師である田中みずきさんの存在を認めなかった町田氏にも対抗する姿勢を見せていますし、銭湯業界を守り、盛り立てていく気概を感じます。
自分たちの業界を守るには何が必要か、何が大切か、よく理解しておられるのでしょう。
次第に銭湯の数も減り、いずれどうやってもなくなってしまう文化かも知れません。
けれど地域に根差し、古き良き文化を残していこうと頑張っている人たちがいるなら、報われて欲しいなぁと思う次第です。
後はこの騒ぎを見ながら感じた、自分に絡む部分の話です。
肩書きを付けたって、ニセモノはニセモノでしかない
この騒ぎに際して書かれた、大阪芸大の哲学教授の記事を読んで、衝撃を受けました。
冒頭に抜粋され、各ページにの頭にも乗せられている文章がこちら。
どうも近ごろ、アーティストやジャーナリスト、学者、医者、弁護士、さらには漫才師まで、肩書を、タレントとして有名になるためだけの差別化手段と勘違いしている連中が多すぎるのではないか。だが、ニセモノは、しょせんニセモノだ。いつかバレる。いっしょに地獄に引きずり込まれる。
これね、すごく感銘を受けました。本当にそうだよなぁって。
同時に、今私がTwitterの辺りで今も目の当たりにしている、とある界隈の人たちにはめちゃくちゃグサグサと刺さるだろうなぁと思いました。
何かになりたくて、それなのに周囲と同じような行動して、フォロワーを増やすことに執心して、コピペのような利己見え見えのフォロー増やし企画をして(そして心ある人たちにはミュートされて)、やれ有益ツイートだと言ってどこかから借りてきた言葉を尤もらしく語って。
やがてアイコンや名前や口調がちょっとだけ違う、判子アカウントが量産されていく。
それでフォロワー数だけに執心して何人になったからインフルエンサーとかね。
でも、そうやって得たなけなしの拡散力や影響力って、至極局地的なものでしかないし、本当に適切な反応があるかどうか、甚だ疑問です。
だって、フォローしてるのもされてるのも、同じような人たちしかいない。
そういう人たちが飛びつくノウハウって、やっぱり魅力ないんだよねぇ。
無理に作り上げたものは、いつか瓦解するよ。
中身のないハリボテはね。
フォローする・される数に関していえば、私は実質100人でも多いくらいだと思います。
だって実際、密に言葉を交わして交流するなら、1日の余裕のある時間に話ができる相手の人数なんてたかが知れてますよ。
Twitterは完全にリアルタイムじゃなくても遣り取りが出来るし、ゆるい会話でも許されるからなんとかなっているだけで。
途中で息切れして消えたり、自分は何をやっているんだろうと思い始める人も中にはいるみたいだけど、そうやって立ち止まれるだけ賢いですよ。
そこで方向転換した方がいい。
分不相応なものを求めても、後が辛いだけですもん。
なかなかすごいことが書かれていた
さて、Twitterのあの辺の話は置いておいて。
前述の記事の内容は、なかなか苛烈なものでした。
さすが芸術と哲学に身を置く方といいますか、感性と倫理の上の危うい線の上で炎の舞を見せられているかのようでした。
勝海麻衣さんへの批判に始まり、表現というものへの本質が書かれていて、ああそうだ、そうだよ!と思わず頷いてしまうような。
絵を描く、のではない。それは看板屋やペンキ屋の仕事だ。絵で描く。なにを? 腹の中でトグロを巻き、外へ出せと暴れ騒ぐバケモノを。佐村河内の一件で、ピアノも弾かないで、と、ゴーストの方が揶揄していたが、まさに馬脚。モーツァルトもベートヴェンも、作曲にピアノなどいらない。音楽は、腹の中で鳴っている。それをペンで楽譜に書き出すだけ。脚本家が脚本を書くのに、役者たちを目の前に並べてしゃべらせたりしないのと同じ。脚本家の腹の中で、多くのキャラクターたちがかってにばらばらに語り出し、動き出す。それらを追って、その声を聞き取るところにこそ、脚本家の才能が求められる。
この前の北斎とお栄のくだりから次第に、私は自分が物語を書いている時のことを、まざまざと思い浮かべていました。
というのも、お話を書く時は、私の中にある世界で動いているもの、起きていることを文字や文章に変換して打ち出していることが多かったから。
もし私がもっと絵を描くことに勤勉で、すらすらと描けるようになっていたら漫画やイラストで表現していたのでしょうが、私はそういう面において面倒くさがりだった。
地道なことをするのが苦手で、この方のいう腹の中にある存在を手っ取り早く現実世界で表現することが出来る手段が文章だった、ということなのでしょうね。
それでもまあ、技術や表現力が伴わないと「これはどうやったら適切に表現できるのか」というのに苦しむこともありました(今もままある)。
書き方は過激だけれど、この方の言っていることは理解できる。
自分の中にだけ存在するものや世界を他の人に見せる、聞かせるために、表現者というのは別の形にチューニングして世に出すのだと。
模写やインスパイアというのなら、それを自分の中に取り込んで噛み砕いて、自分なりの理解と解釈と共に再構築して表現しなければならないのだろう。
音を聴いて、音楽を聞かない。絵の具を見て、絵を見ない。
勝海さんのしたことは、こういうことだ。
上っ面だけなぞっても、自分のものには出来ない。
真似ることから始まるものだってあるかも知れないけれど、それはあくまで練習、習作の段階で「自分の作品です!」とふんぞり返って出すものではない。
何者でもない段階でもう、自分は自分であるということ
無理に何かになろうとしなくとも、背伸びをしようとしなくてもいいと。
自分は何者でもないと思っている時ですら、既に他でもない自分という唯一の存在なのだと気付くことが、何事においても近道なんじゃないかなぁ、と思います。
「誰も見ていなくても、やらずにはいられない何かがある筈。そういうバケモノを腹の中で育てないなら、絶対に大成しない。外面だけ猿真似しても、道化にさえならない」
厳しいことかも知れないけれど、真理だよなぁとしみじみ。
だから私も、たとえ誰にも見られなくても、心の叫びのようなモノも交えてブログを書かずにはいられなかった時があったのでしょう。
弱い立場の人たちが理不尽な目に遭っていると声を上げずにいられないのも、やっぱり腹の中にそういう生き物がいるからなのかな。
本物を目指す、本物になるってそういう部分を突き詰めていくことになるのかぁ。
なんだか大変そうだけれど、そういう部分とも見つめ合っていこうかなと思えました。
何の本物になるかは、よく分かりませんが。