今週のお題「桜」
昨日、無事に旅から帰ってきました。
西の都からは夜行バスで10時間弱、そこから隣県の駅間を40分前後乗ってバスで50分で地元のバスターミナル、そこから自転車で十数分の帰路。
夜行バスは寝ているだけだから楽という訳でもなくて、乾燥するし疲れます。
尚且つ始発くらいから終点まで乗ると、席が選べないところなら大概窓際に追い遣られます。
今の時期はまだ窓際は寒くて、壁に触れている体の側面はかなり冷えます。
お陰で行きはお腹を壊しました…
行きは隣の通路側の人が一言挨拶もしない、途中の休憩の際も協力的でない人だったので大分辛かったです。
危機的な状況は2回目の休憩とタイミングが合ったので、1回目の休憩の時は声を掛けても微塵も動かなかった隣人に対して「すいません通ります!」と切羽詰まった感を出したら、ただならぬ気配を感じたのかちょっと足をどけてくれて、非常に助かりました。
隣や近い席に変な人が乗っていると(その時は困るけど)後で話のネタになったりするのでまだいいのですが、こういう閉鎖的な人が一番いろんな意味でつらいなぁと思う次第です。
今回は私のピンチがあって、ネタになった感。つらい。
帰りのお隣さんは優しい方だったので、こういう場合は特にネタになるようなことがなくても全然OKなのですが。
それはさておき、タイトル通りの本題です。
帰り道に見た桜のこと
夜行ではなく地元行きのバスに乗った時、あちこちに桜が咲いているのを見られて、いい時期のいい時間帯に帰って来られたなと思っていました。
疲れはありましたが、もう少しでやっと家に帰れるんだという安堵感の中で通り過ぎていく桜を見るのも、なかなか感慨があっていいものです。
それと同時に、自分は来年もこの桜を見ることが出来るのかという、奈落のような不安が思考の縁にまとわり付いているのを感じました。
どうにか生計を立てられる収入を得られなければ、そこでおしまい。
確実に死ぬ方法を見つけられていない私が出来る死に方は、餓死くらいしかないのかも知れない。
それは嫌だな。
お腹が空いて苦しい状態で死んでいくのは。
最後くらいは楽に、眠るように死にたいのだけれど。
出来れば死なないようにしたい
私だって好き好んで死にたい訳じゃないよ。
ずっと辛くて、死にたいと思っている時間の方がそうでない時よりも多いような人生でも。
辛くない程度に糧を得られて、気持ちに余裕を持って生きられるようになりたいよ。
それが出来るかどうか、全くもって見えない訳だけれど…
最終手段は生活保護なのかなと思っているけど、果たして自分に適用されるか分からない。
押し付けられたとはいえ、私には家がある。
権利書も売る権利もない家だけど。
なんのことはない、家を建てるとなった時に同じ敷地内に同名義の家があってはいかんみたいな流れになって、私の名義で登記させられたのだ。
これを目にした人には、例え家族や縁の深い人であっても簡単に(簡単でもなかったのだけれど…)名義を渡してしまってはいけないと伝えたい。
逆に自分の家があるという強みもなくはない。
どんなに不便な場所であろうと、この家がある限りはホームレスにはならずに済む。
自分で固定資産税や電気代が出せなくても、祖父や母が生きている間はとりあえずなんとかしてくれるだろう。
というより、今までの苦労や苦痛を考えれば、それくらいして貰っても罰は当たるまい、むしろ足りないくらいだな。と思っている。
表面上は穏やかに接することが出来るようになっても、やはり積年の恨みは簡単には薄れないのだな。
それならそれでもいいのかも知れない。
死なずに生きていくための、図太さの芯になってくれるのなら。
いいものとよくないものは混在している
去年クビになった会社の話。
社長は私にとって、とてもいい人だった。
あの人が毎日会社にいた頃は、私の働く環境も随分よかった。
慣れない部分や覚えなければならないこと、覚えても苦手な分野などはあったけれど、自分の作るものに誇りを持てたし、この仕事をすることで社会に参加している、貢献しているという思いもあった。
だから一生懸命頑張れたのだと思う。
話の端々から、彼は繊細な部分があるのだろうなと感じていた。
精神的な疾患を患っている(いた)ことも。
だから私と合う部分が多かったのかも知れない。
恐らく、彼がずっと会社に来ている環境であったなら、私は潰れなかったしクビにもならず、今も自分の仕事に誇りを持って働いていたのだろうと思う。
対してその下で働いている、私の直の上司に当たる人はとにかく「デキない」「さえない」人だった。
悪い人ではなかったけれど、世間的に言われる「男は○○だから~」みたいなレッテルを貼られてしまうタイプの福袋みたいな人だった。
社長が毎日会社に来ている頃は、しょっちゅう怒られていた。
重ね重ね書くけれど、悪い人ではないのだ。根は善人だろう。
けれどいい人でもなくデキる人でもなかった。
中小企業ゆえに、生き残っていくために社長自ら社外や海外に飛び回るようになって、常に首根っこを掴んでくれる人がいなくなったからダメになったのだろうと思う。
上司を戒めているものが減り、人員が減ったりして職場の環境が悪化した際のしわ寄せがみんな私のところに来たのだ。
当然潰れた。
それだけのことだけれど、上司は私がその頃最後通牒として出したメールでの訴え掛けを社長に見せて、やっとのことで自分の過ちを自覚し謝罪と改善を行おうとし始めた。
それでも、何回指摘しても治らない悪癖は治らなかったし、キャパオーバーな仕事を「うっかり」押し付けようとしてきたりというのも往々にしてあった。
仕事中にプライベート的な突っ込んだ話をされるのも嫌だった。
特に「家では何もしていないんでしょう」みたいなすっとぼけたことを言われて、ああこいつ奥さんは自分が働いている間、家で何もしていないと思ってるタイプかな、と嫌な気分にならざるを得なかったこともあったり。
あのねえ、仕事してる以外の時間に私が家事をやらないで、誰がやると思ってるの。
それに、家族の面倒を見ていることだって知っていた筈なのに、これですよ。
祖母が亡くなった後、追い追い独り暮らしになっていく訳ですが、仕事で壊れてしまった私は自分の身の回りのことも出来ない日が増え、仕事以外は食べるか寝ているしか出来ない時もあり…
元凶が思慮も配慮もゼロな頭空っぽなことを言っているのを聞いたらそりゃ、一刻も早く召されて欲しいと思っても仕方ないですよね?
クビになった時もですね、私の精神面でおかしくなってしまったことや辛さや苦しみなども話したのですが、その答えが「言ってくれればよかったのに」ですよ。
お前、そ れ 何 度 言 っ た と 思 っ て る ん ?
無理な仕事を押し付けてきた時と同じように、何度言っても聞き流してたんだろうな。
「目が死んでるけど大丈夫?」とか聞いてきたこともあるけど、忘れてるんだろうな…
体の不調を訴えていたのに、座っている時間が長いとチクリ魔から言われたとか。
私の訴えは聞かないくせに、チクリおばちゃんの話は右から左にそのまま受け入れるんだな。どんだけだよ。
部下へのフォロー能力皆無で、よく権利だけ行使できるなーって逆に感心しますわ。
そんなこんなで、いいものとよくないものはセットで遭遇するケースは往々にしてあるということで。
いい方が悪い方を押さえてバランスが成り立っている場合、それが崩れれば一気に最悪の方向に向かうこともあるんだなぁと…まあ、しみじみと感じました。
自分の価値とは何か
雇われないで生きていくということは、即ち自営業ということなのですが、その場合雇われて働くより遥かに大変なことも沢山ある訳で。
常々、大学や会社を辞めてフリーランスになりましょう!みたいな喧伝している人たちを見ては「何言ってるんだこいつ…」みたいな感じでぎょっとしていました。
いくら終身雇用の時代でなくなったからといって、定職に就けるというのが最高の身の保証と生計を立てる方法であることは、まだまだ揺るぎないですからね。
私はもう恐らく、その道を歩むことは出来まいと考えています。
完全に社会から零れ落ちた人間になってしまった。
もう、自分の持てる何かをなんとか使って、糧を得ていくしかないという状態ですね。
こういう時必要になってくるのが、個人としてのなんらかの価値なのでしょうが、自分にそんなものがあるのかが考え難い。
頭の中が暗く重く、欝々としている状態だから余計に考えられないのかも知れませんが、そんな状態で何が出来るのか。
自分では強みや長所がよく分からない
一番の悩みどころは、自分の持てるものの中で何を強みとしていくのか、何に長けているのかをどう見出していくべきなのかというところです。
客観的に見たら、色々あるのかも知れません。
でも自分はひとりしかいない。客観性で以て自分を見られる状況でもない。
そんな時どうするべきなのか。
自分にとって当たり前のことが、他人にはそうでない場合もある
逆に自分が強みだと思っていなくても、他人から見ると「すごいこと」だったという場合もあるので、なかなか難しいところです。
「これくらい当たり前でしょ」とか「自分はまだまだだ」と思っていることを、すごいとはなかなか気付いたり自覚したり出来ないですからね…
とにかく今自分が出来ること、切れる札を切っていって何かモノになる、お金や何かに変えられるものを探していくしかないのかも知れません。
ブログもある意味、その一環でもあるのかなという気はしますね。
ひとまず山積みになっていたことを少し済ませることが出来たので、やりたいと思っていたことを少しやってみようと思っています(というかもう着手はしているけどね)
それが自分にとって意味のある何かになってくれたらいいんですが。
1年後どうなっているかなんて、誰にも分からない
えらてんさんの著書「しょぼい起業で生きていく」にこんな一文があります。
いまの自分がとてもしんどくて、もう生きていく意味なんてないと思っている人。あなたの1年後がどうなっているかなんて、あなた自身も含めて誰にもわかりません。どうか、自分の人生を放り投げて諦めてしまうのだけはやめましょう。
しょぼくてもいい。自分たちのできることを、自分たちのやりたいように。
子供の頃から自分が生きている意味が分からずにいた私でも、希望を持っていいのだろうかという迷いは今もあります。
私は子供のまま死ねず、世の中は相変わらず最悪で、それでも死ななくてよかったと思える時が来るのか。
全くもって分かりません。
でも、ブログを書き始めたことでとある騒動を知って、その先にこういう生き方をしている人たちもいるんだと知れたことは、幸運なことだったんじゃないかなと思えるので。
『死ななくて済むように生きられる』を目指してみようかと思います。