今このページを開いたあなたは、どんな思いでいるのでしょう?
死にたいという気持ちや自殺の方法などを探して、辿り着かれたのでしょうか?
そうだとしたら、とても苦しい思いをされているのではと思います。
消えてしまいたいとか、もう疲れたとか、そんな風にも思われているかも知れませんね。
私も昔から死を願っていた人間で、それなのに過去何度か自殺に失敗してしまってズルズルと生き続けている死に損ないです。
事情はそれぞれおありだと思いますが、自分の考えや経験を話す事で何か感じて貰えたら…と思い、この記事を書きました。
「死にたい」という気持ちを、否定しなくてもいい
私が一番伝えたいのは、これだけです。
よく死を望んでいることを人に打ち明けたりバレてしまうと「そんな事を言う(考える)ものじゃない」なんて言いながら諭したり説教をしようとする人を見掛けたりしますが、人の気持ちも分からない癖に…って思ってしまいますよね。
こういう、無責任な言葉は基本聞かなくていいです。
だってそんなことを言ってきた人は、あなたのために、あなたが死にたいと思うくらいの問題を肩代わりして背負ってくれますか?
自分の人生を投げ打ってでも、全てを負ってくれるつもりでもないのなら、所詮相手にとってはその程度のことです。
安全なところから適当なことを言ったり、石を投げているだけです。
そんな無責任な人の言葉は耳に入れなくていいのです。
大切なのは、どうしてあなたが「死にたい」と思わざるを得なかったのかということ。
それを放置したままでは、何も進められません。
「死にたい」は、追い詰められている人の心のサイン
暑ければ「暑い」と言うように、寒ければ「寒い」というように、「死にたい」という言葉はあなたの心身にとても辛い、耐えがたい部分があって発しているものです。
もしその苦しみの原因を取り除くことが出来れば、まだ生きていくことが出来る人も少なくないのでしょう。
「死にたい」は、本当は「生きたい」のに、望むような形で生きられず苦しみすぎてしまったから生まれてきた感情なのではないかと思います。
そこまで追い詰められてしまった人は、他に何も考えられなくなっているかも知れません。
もう悩んだり苦しむことに、疲れ切ってしまっているのかも知れないですね…
でももし、心の中に少しだけ考える余裕があるなら、自分の心に尋ねてみてください。
自分が本当に望んでいることは何なのかと。
私の場合
私は子供の頃から、自分の居場所のなさを感じながら生きていました。
昔祖父から聞いた話によると、私が生まれた時、病院にきた私の実の父親は「なんだ、男じゃないのか」と顔も見ずに帰ってしまったと言います。
そして私が物心付くか付かないかのうちに不倫をし、母と私を轢き殺そうとしたのだとも。
どうして祖父が私にそんな話をしたのか、どこまでが本当のことかは分かりません。
ただ私は、自分は親にも必要とされない子供だったのだということを、当時改めて感じただけでした。
15歳になったら死のうと思っていた
子供の頃の私は、特に勉強しなくても成績がよかったのですが、宿題をやるのが嫌いでした。
後回しにして結局やらなかったりすることが殆どで、夏休みの宿題も自分が好きな(出来る?)工作などしか出していなかったように記憶しています。
そのせいか、何かをやり遂げるということが難しく(ゲームをクリアするとかなら出来ましたが)ひとりでノルマをやり遂げるというのが出来るようになったのは、大人になってからでした。
学校に行こうと思うと具合が悪くなって、休むこともたびたびありました。
今だったら恐らく、発達障害か何かと診断されていたのかも知れません。
でも、母は私のそういうところを見ないようにしていたのでしょう。
私がまだ幼稚園の頃に再婚して、弟や妹が生まれて、仕事もしていて私のことを見る余裕がなかったのかも知れませんが、それが私の家の中での疎外感を深めていくことにも繋がったのでしょうね。
まあ、母のことも家のことも、色々ありました。
私が学校を休むと、仮病だと疑われて嫌味を言われるようにもなりました。
本当に辛いのに、一番分かって欲しい人に理解しては貰えなかった。
「悲劇のヒロインのつもりか」ということも言っていましたが、今でも訳が分かりません。
そんなつもりもなかったけど、悲劇のヒロインだったらどんなによかったでしょうね。
誰かが助けてくれたかも知れない。
でも、助けてくれる人なんてどこにもいなかった。
ずっと、自分が生きていてもしょうがないんだと思っていました。
小学校の後半くらいには、キリのいい15歳になったら死のうと思うようになっていました。
それをよすがに、なんとか生きていました。
15歳、中学3年生になった年、私は考えていた通り何回か自殺を試みました。
でも、みんな失敗してしまいました。
当時自殺に関する本なども流行っていて、立ち読みして参考にしたりもしていた筈なのですが、子供だったからか方法が稚拙だったのでしょう。
その時の傷跡は今も小さなものが残っているくらいで、後遺症なんてたいしたものもありません。
(何年か前に転んで痛めた膝の方が、まだ症状を引きずっているくらいです…)
まあ、2階や3階程度の高さから飛び降りても、下がどうなっているか確認しておかないとたいして怪我もしないんだなという勉強にはなりました。
あと、意外と人気のない市街地みたいなところでも見ている人はいるんだなと…
人間って、死にたい時に意外と死ねない
自殺に失敗した人は、その後前向きに生きているみたいな話を聞いた時、嘘も休み休み言えと思いました。
その人の周りのサンプルだけで、決めつけないで欲しいと。
私は自殺に失敗した後も、進学して親のいる家から離れて住むようになった直後に電池が切れたようになって引きこもりになり、それからも希望のない人生をずるずると生きてきてしまいました。
なんとかいい方向に持っていけないかと足掻いたりもしましたが、どうしようもなかった。
いいように利用してやろう、搾取してやろうという手合いばかりで滅入るばかりでした。
死ぬ方法に関しては色々調べもしましたが、周りに迷惑を掛けないように、かつ楽に死ねる方法がないというのは、時を追う毎に分かってきました。
周りのことなんて気にしなければいいのでしょうが、私が肉親に嫌な思いをさせられたように、他の人にまでそういう嫌な思いをさせてしまうのは嫌で。
煙のように消えてしまうことが出来ないのであれば、もう殺されたり事故に遭ったりするような、自発的な要因ではない死に方しかないのかなと思うくらいでした。
私は死ぬことも出来ないんだな。
生きてもいない、ただ息をしているだけ。
そんな状態だったので、今も展望は見えていません。
私が自殺を失敗したことは、母も知りません。
言ったところでどうにもならないし、苦しんだ分の時間も帰ってこないので私にとっては何の意味もないことですし。
結局、身内で知っていたのは亡くなった祖母だけでした。
アラフォーまで生きてきて、いいことや楽しいこともなかった訳ではないです。
けれど、どうしても「あの時死んでいたら、こんな苦しい思いをしなくてもよかったんだろうな」と振り返ってしまうことだって多かった。
自殺を完遂できた人は、思い切りも運もあったのかな…と思います。
こんなに自分から死ぬのが難しいなんて、子供の頃は知らなかったです。
生きる権利だけでなく、死ぬ権利も認められて然るべきなのでは
祖母が亡くなった時、ICUに入っていて喉から管を繋いでいました。
肺が悪くなっていて、もう自力の呼吸では足りなくなっていたんですね。
でも管を付けてから何ヶ月もしないうちに、祖母はなくなりました。
お葬式の前、母は「これだったらそのままにしてあげた方がよかったのかな」と言っていました。
体に余計な傷を付けないまま、酸素が足りずに死んでいくか、喉に穴を開けて器具を取り付けてでも少しだけ生き永らえさせるか…
振り返れば選択肢はあったかも知れませんが、家族にも難しいものだったと思います。
日本の医療はとにかく、何が何でも延命させようというやり方が強くて、その人の意思や尊厳は守られているのかなと考えてしまうところがありますね。
もしこれ以上生きることが苦しみばかりなら、そこで自分の意思で人生にピリオドを打てる環境や制度も必要なのではないか。
祖母の死に際して、よりそういった思いも強くなりました。
最近は3Dプリンターで作れる安楽死用のマシンというものがあるそうで
物議を醸していたりもするそうですが、こういうものもあった方がいいのではないかなと思いました。
日本もかび臭さをなくしてもっと進んだ社会を目指すなら、人の心の問題は無視できない筈です。
真っ当に行きたい人の意思を踏み潰さないような制度や環境が真っ先に必要でしょうが、死に直面している人の心も大切にして欲しいですね。
身辺整理をしておく
いつ死んでもいいように、身の回りのものや物事を片付けておきましょう。
私は仕事場はきれいに使うのに、自分の部屋を片付けるのが苦手です。
もうなりふり構っていられない場合はこのままでいくと思いますが、やっぱり立つ鳥となる時はすっきりきれいにしておきたいのが心情ですよね。
死にたくてたまらない人はまず、部屋の掃除をしたり、要らないものを片付けたりしてみるといいかも知れません。
遺書を書こう
死んだ後、それが自分の意思だったのかというのも、後処理には重要なポイントになります。
下手に変な死に方をして事件性を疑われたりすると、警察などにも余計な手間を掛けてしまいますし…
(ちなみに自宅で死ぬと、やっぱり警察が家を調べにきます。家族などが住んでいて面倒を掛けたくない場合は、やはり外でことを起こすしかないでしょうね)
自分が死んだ後残っている物品をどうするか、関わりのある人にどうして貰うかというのを決めておいた方がスムーズにいきますし、どうして死にたいのか、死のうとしているのか、その前後にある問題は何か、など具体的に考え易くもなると思います。
遺書を書いているうちに「こうすれば死ななくて済むかも知れないぞ」というのを思いつく可能性も、なきにしもあらずでしょうか?
終わりに
そんな訳で…
今死にたいと思っている方にも色々あるということを、少しでもお伝えできたでしょうか?
ですが、やっぱり一番言いたいことはひとつだけです。
「死にたい」という思いを否定しない。
押さえつけたって心の中にはずっとあるものだし、周りも余計なことを言わないで欲しいなと思います。
もし親しい人がそういったことを打ち明けてきたら、せめて否定やその場しのぎのことを言わないようにしてください。
死にたいと打ち明けられる相手なんて、そうそういません。
本当に特別だったり、頼りに出来る相手にしか言えないです。
ただ聞いてくれるだけだっていいんです。
こんな記事も書いています。
今苦しんでいる方の心が、少しでも楽になりますように。